訪問スポット名 | Googleマップでの位置情報 |
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仲島の大石 | 26.211608, 127.676378 |
御物グスク跡(遠景) | 26.208387, 127.671321 |
三重グスク跡 | 26.213681, 127.665040 |
波上宮 | 26.220550, 127.671143 |
上天妃宮跡の石門 | 26.214495, 127.674939 |
長虹堤跡(美栄橋) | 26.219214, 127.685029 |
崇元寺石門 | 26.220313, 127.690571 |
沖縄県立博物館 | 26.226947, 127.693654 |
現在は都市化が進む那覇市街のルーツを求めて、古琉球期の史跡を訪ね歩く。当時から存在していたグスク跡・神社・寺廟・海中道路跡などを実際に徒歩で歩きながら、港町・那覇の創成期の有り様を体感する。
泉崎の那覇バスターミナル構内にある琉球石灰岩の巨石。もとは旧那覇港の海中にあり、干潮時には砂浜でつながっていた。久米村の風水の中で竜珠に見立てられ、李鼎元『使琉球記』にもその景勝を称えられている。現在は陸地となっているが、浮島であった時代の那覇の様子をうかがう痕跡の一つである。
(『沖縄大百科事典』「仲島の大石」・『角川日本地名大辞典47 沖縄県』「仲島の大石」・『日本歴史地名体系48 沖縄県の地名』「仲島大石」)
琉球王国時代、特に15~16世紀にかけて琉球が近隣諸国と交易を行っていた時代を象徴する遺構で、海外貿易品を収蔵した王府の倉庫として使われていた。創設年は不明だが、15世紀中頃の琉球国図には「宝庫」として記載があり、『海東諸国記』『朝鮮王朝実録』などの記載からもその繁栄ぶりが窺える。しかし『琉球国由来記』『琉球国旧記』等の記載によると、近世琉球期に入るとその機能を失ったという。近代以降は料亭がつくられ、現在は米軍施設の一部となっており、許可なく立ち入ることはできない。なお御物グスクの対岸北側に位置する現在の那覇フェリーターミナル付近は、冊封使関連の施設や唐船小堀や硫黄グスクなどの港湾設備が多く存在していた場所である。
(『沖縄大百科事典』「御物城」・『角川日本地名大辞典47 沖縄県』「御物城」・『日本歴史地名体系48 沖縄県の地名』「御物グスク」)
方言ではミーグスク、新しい城の意という。16世紀中頃に築城され、那覇港口の北に位置して対岸の屋良座森グスクとともに那覇港の防御ラインを形成していた。時期的にいわゆる後期倭寇に対する防御施設として設けられたと考えられている。汪楫の『使琉球雑録』では「北砲台」と記されるが、島津氏の琉球侵攻後は城砦としての役目を失い、廃城となっていたという。現在は完全に陸続きだが、かつて三重城と那覇とは岩礁をつないで延びる海中道路で結ばれており、その途中に臨海寺・竜王殿が設けられていた。その様子は各種の那覇港屏風図や周煌『琉球国志略』の「臨海潮声」などに絵画として描かれている。近世以降は出港する船を見送る地となり、琉歌にも多く詠まれている。
(『沖縄大百科事典』「三重城」・『角川日本地名大辞典47 沖縄県』「三重城」・『日本歴史地名体系48 沖縄県の地名』「三重城跡」)
琉球八社の一つ。熊野権現を祀る。創建年代は不明であるが、元来護国寺の鎮守社として勧請したものであるという。その創建が王府と深く関係しているとされることは、『おもろさうし』に収録されているおもろからも窺える。1522年に日秀上人が再興し、自ら刻んだ熊野権現の本地である阿弥陀・薬師・観音の3像を安置した。現在も護国寺と隣接して多くの参拝客を迎えている。若狭の海岸に突出した断崖の上にある社殿は、古琉球期の那覇をしのぶことができる場所といえよう。
(『沖縄大百科事典』「波上宮」「護国寺」・『角川日本地名大辞典47 沖縄県』「波上宮」「護国寺」・『日本歴史地名体系48 沖縄県の地名』「波上宮」「護国寺」)
天妃は中国の媽祖信仰に由来する航海を守護する神。久米村には永楽年間に創建されたとされる別の天妃宮があったが、後にこの上天妃宮が創建されたため、そちらは下天妃宮と呼ばれるようになった。創建年は不明だが、景泰八年(1448)銘の鐘が寄進されており、『琉球国由来記』などによると宣徳~正統年間(1426-1449)の創建とされる。王府の外交文書が保管された場所でもあり、『歴代宝案』の一部が保管されると共に、外交文書作成を行う事務所として機能していた。現在は天妃小学校に隣接してその石門のみ残されている。
(『沖縄大百科事典』「天妃廟」・『角川日本地名大辞典47 沖縄県』「上天妃宮」・『日本歴史地名体系48 沖縄県の地名』「上天妃宮跡」)
首里と浮島であった那覇を結ぶための海中道路で、若狭町のイベガマから崇元寺前の安里橋にいたるまで、約1kmにわたり架設されていた。『琉球国由来記』によると、築造は景泰三年(1452)とされ、冊封使来琉の際の便宜のため、尚金福王が国相の懐機に命じて造らせたという。築造前後の事情を伝える沖縄県立博物館蔵「琉球国図」および『海東諸国記』所収「琉球国之図」には「石橋」と記載されている。その7座の石橋が連なる景観から冊封使の記録に「長虹」の呼称が用いられるようになり、「長虹堤」と称されることとなった。周辺の海の陸地化に伴いその役割を失い、現在ではわずかにその痕跡を留めるのみである。
(『沖縄大百科事典』「長虹堤」・『角川日本地名大辞典47 沖縄県』「長虹堤」・『日本歴史地名体系48 沖縄県の地名』「長虹堤」)
崇元寺は臨済宗の院で、尚家の廟所であるとともに歴代国王の霊位を祀る国廟であり、冊封使来琉の際には先王の霊を弔う諭祭の儀式を行う場所でもあった。創建は尚巴志代81422-39)または尚円代(1470-76)といわれるが、崇元寺下馬碑が嘉靖六年(1527)に建立されていることから、その頃の創建との推測もある。石門・左右掖門・正廟が国宝指定されていたが沖縄戦で破壊され、現存するのは戦後復元された石門と下馬碑の東碑のみである。
(『沖縄大百科事典』「崇元寺」「崇元寺第一門及び石牆」・『角川日本地名大辞典47 沖縄県』「崇元寺」・『日本歴史地名体系48 沖縄県の地名』「崇元寺跡」)
もとは首里に置かれていたが、2007年に新都心として開発の進むおもろまちに移転してリニューアルオープンした。沖縄の歴史はもちろん、自然や文化も含めて学ぶには最適の施設と言える。美術館も併設されている。このほか、那覇の歴史を学ぶための施設として那覇市歴史博物館もあり、交通至便の市内中心地にあるので時間があれば併せて観覧したい。
(公式ウェブサイト:http://www.museums.pref.okinawa.jp/)
那覇は琉球王国史を語る上で欠かすことのできない港町である。田名真之氏によると、
那覇港の記録は十五世紀前半から史上に登場するが、尚巴志の三山統一後、首里城との関係で王国の港として成立、整備されたとする見解が一般的であろう。近年の研究では、港の立地や機能、交易の実体、背景をなす那覇の町の性格などが注目され、多国籍な人々や外来宗教の存在とも相まって、新たな国際都市論も展開されている。(田名真之「港町那覇の展開」『沖縄県史各論編3古琉球』、2010、387頁)とされる。田名氏は那覇港の起源が14世紀後半、察度政権期の中山勢力が浦添グスクを拠点としていた時期に遡る可能性にも言及しているが、いずれにせよその起源と繁栄が古琉球期にさかのぼることは間違いない。
しかし、現在の那覇の市街地から、古琉球期の那覇に繋がる手がかりを見いだすのは容易ではない。そもそも、古琉球期の那覇は本島と陸続きではなく、「浮島」として琉球の玄関口の役割を果たしていた。
那覇は「浮島」と呼ばれた独立した島であり、対外交易の官衙や公倉、「久米村」と呼ばれる華人居留地が立地していた。中国・南蛮(東南アジア)・日本の商船が寄港し市場には東南アジア・中国産品が並ぶ、環シナ海世界における国際的な交易拠点としての位置を占めていた。(上里隆史「古琉球・那覇の「倭人」居留地と環シナ海世界」『史学雑誌』114-7、2005、3頁)古琉球期の「浮島」那覇は国際交易の一大中心であり、様々な人々や商品が往来していたことがわかる。
上里隆史氏は、沖縄県立博物館蔵「琉球国図」および『海東諸国記』所収「琉球国之図」から、この「浮島」那覇にはいわゆる「久米村」人、すなわち中国から渡来したとされる華人系の人々の居留地だけでなく、日本との往来に従事する倭人系の人々の居留地も存在していたことを指摘する。事実、那覇には古琉球期に中国/日本との関係の中で建立されたとされる寺社・廟宇がいくつも存在する。これらの寺廟と琉球王国の玄関口としての港湾機能を担った史跡とを徒歩で巡ることにより、古琉球期の那覇を空間的に体験するのが本ツアープランの主目的である。
上里氏の考証によると、古琉球期の「浮島」那覇は、港湾機能の中枢としての狭義の「那覇」、華人系の居住地区であった「久米村」、倭人(日本人)系の居住地区としての「若狭町」、そして浮島の対岸南側にあって補助的役割を担った「泉崎」から構成されていたという。本ツアープランの訪問スポットは、「泉崎」の仲島の大石(ただし、当時は海中に位置していた)、狭義の「那覇」の御物グスク跡・三重グスク跡、「若狭町」の波上宮および護国寺、「久米村」の上天妃宮の石門を徒歩で回り、その後「浮島」那覇と首里をつなぐ海中道路であった長虹堤の跡を経て長虹堤の終着点でもあった崇元寺の石門に至るというものである。現在の那覇市街地は古琉球期の「浮島」那覇と比べて大きく様変わりしているが、本ツアープランを通じて、浮島であった当初の那覇の有り様を空間的に体感することが可能になるのではないだろうか。