門の外から。鄭文英の墓所は現在の淮安市淮陰区、「廃黄河」の北岸に位置する「淮陰区図書館」の裏手にある。
門の脇にある江蘇省文物保護単位の標識。「琉球国京都通事/鄭文英墓」。「朝」の字が抜けているため、ちょっと落ち着かない。ちなみに鄭文英は1792年に「朝京都通事」の役職を帯びて北京に赴いたが、「朝京」とは「京師に赴いて皇帝に拝謁する」、「都通事」は琉球の対外業務を司る職能集団・久米村の官職名で「通事を統べる者」という程度の意味である。
門をくぐったところから。手前に墓碑、その向こうに塚が見える。なお、こちらのページ(2006年1月訪問時の写真)を見ると、塚の高さがぐんと高くなっているなど、その後相当に手が加えられ整備された様子がわかる。
碑面には、次のような文言が刻まれている。
公乾隆五十八年奉使來貢十一月十四日道卒葬
琉球國朝京通都事諱文英鄭公之墓
此原石半缺民國二十五年里人重立興化金應元書
「通都事」という部分が気になるが、それはともかく、琉球国の朝京都通事・鄭文英が乾隆五十八(1793)年に使節の一員として来貢したが、11月14日道中に没し埋葬されたこと、もともと建てられた石碑が半ば欠けてしまったため、民国25(1936)年に地元の人々によって新たに石碑が建てられたということが記されている。
背後から見た光景。
なお、この鄭文英の墓については、松浦章「清乾隆五十七年貢期の琉球進貢と鄭文英の客死」(『南島史学』第51号、1998)という専論があり、前後の経緯や関連文献も含めて詳しい解説がなされている。また、ウェブ上の日本語での関連情報としては次のものが有用である。
『うさぎの部屋』>中国の部屋>遣唐使文庫>淮陰県図書館
『連雲港で過ごした半年』>第2部 5.淮安に琉球国使節の墓を訪ねる